ミツヤコーポレーションの歴史は江戸末期、中辻一族が堺の毛穴の地で綿布の晒の生産を興したことに遡る。以来、営々と家業に励み、毛穴一帯は三河の知多と並び日本の晒の七割を生産するまでに成長する。太平洋戦争末期の空襲で堺は一時焼け野原となったが、その後戦後のベビーブームとともに開始したおむつの製造・卸の事業が急成長を遂げ、昭和二十六年に(ミツヤコーポレーションの前身)ミツヤ綿業が誕生した。
一方で1981年 布おむつ業界に激震が走る。
ユニチャームが紙おむつ「ムーニー」の販売を開始し、
急速に売り上げを伸ばしていった。その煽りを受け、日を追うごとにミツヤの売り上げは低下していく。江戸時代より続く中辻晒もミツヤ綿業も廃業の危機を迎えることとなる。
しかしある日、100年以上の関係があった丸紅株式会社から一つの提案がもたらされる。 「業績不振に陥った丸紅の繊維流通センターをミツヤに引き取って欲しい」という提案だ。大きな決断ではあったが、ミツヤには卸で培った出荷ノウハウと晒工場の土地がありそれらを活かすことで、大きなビジネスチャンスが生まれるとの確信があった。結果1988,年ミツは江戸時代より続く家業の晒工場をたたみ、倉庫業をベースとした「物流サービス業」へと大きく舵を切ることとなる。
*「物流サービス業」とは、当時常務だった中辻の造語である。
丸紅から引き継いだ当初は忠実屋の衣料品の取り扱いが主であったが、 その後ミツヤコーポレーションの事業はイズミヤ、ユニー、イオン、ユニードなど全国のスーパーチェーン各社に広がっていった。1990年代、日用衣料品の販売はこれらの量販店が中心となる。量販店の取り扱いが増加するにつれミツヤの売り上げは右肩上がりに増加し布おむつで6億円だった売り上げが、ミツヤコーポレーションと社名変更した1999年の3月期の売り上げは100億円に迫るまでとなっていた。
しかし2000年代に入りまたもや業界に地殻変動の波が押し寄せる。 ユニクロなどが採用するSPAと呼ばれる販売手法の台頭だ。業界は近年ユニクロの一人勝ちで量販店の衣料品部門は軒並み赤字に陥っている。得意先の大半が量販店中心となるミツヤコーポレーションとしても構造改革の必要が迫られ契機となった。
時代の変化に対応すべくミツヤコーポレーションが打ち出した次なる布石が2013年に立ち上げた臭い研究室「臭いXラボ」である。アパレル業で培ったノウハウを生かし、 繊維に付着した悪臭や気になるニオイの消臭を目的とする新商品の開発が狙いだ。 その研究室から生まれた商品は介護用消臭スプレーの「NANO-CAREスプレー」や SONYの籾殻を活用した新素材トリポーラスを活用した消臭繊維「トリポーラスファイバー」などが挙げられる。 NANO-CAREスプレーは介護施設からの問い合わせが多く、 トリポーラスファイバーは世界的企業からの問い合わせが殺到している。 常に時代の変化に柔軟に対応してきたミツヤコーポレーションのチャレンジ精神は歴史ある街、堺の地で今も力強く根強いている。